HAJIME(大阪・肥後橋)一回限りの芸術

実際にその料理を目の前にすると、あまりの迫力に一瞬ひるんだ。

HAJIME_planet_earth

◆地球(planet earth)
テーブル(80cm幅)いっぱいに置かれた、直径60cmの「地球」の皿。
使われている食材は70~80種類。それらをこの大皿の上に盛り込んでいく。
しかもサラダのようにボウルでまとめたものを無造作にわさっと盛るのではなく、1種類ずつ、それぞれ間隔をとっておかれている。

食べる前の予想――一つ一つのパーツが小さすぎて、ちまちまと見えて、食べた気がしないのではないかという疑念は、最初のひと口で消え去った。
数種類の食材をまとめて口の中で咀嚼することで、食べた印象がとても複雑になるのだ。
しかも、これだけ食材の種類が多いので、ひとつの食材を2度口にすることはない。
複雑な料理の印象が、毎回違う。しかもそれが、このひと皿を食べ終わるあいだじゅう続くのだ。
なんなんだろう、これは。
それは本当に、初めての体験だった。

大阪のHAJIMEに私が最初に伺ったのは、オープンして4か月経ったころ(08年9月)だった。
料理写真をネットで見た。
「たぶん、大丈夫」という確信だけはあった。

Hajime_200809

キンメダイのポワレ(2008年の料理)

ランチ「コース”夏”」4,725円。客席は半分くらい埋まっていた。まだミシュラン関西は出ていなかった。
ひらめのカルパッチョ、半熟卵と桃のピューレ、ホタテのポワレ、キンメダイのポワレ、白金豚のロースト、リンゴのソルベにショウガのジュレ。
帰り際に米田さんに挨拶したとき「やりたいことがまだまだある」というようなことを言われたのを覚えている。
料理は、いまの料理の形とは異なっていた。

それから1年後。
2009年10月。ミシュラン関西が新しく刊行され、HAJIMEが3つ星を取ったと知った。
以降、予約が全く取れなくなったのは、ご存知の通りだ。

「たぶん、大丈夫」とはしかし、われながらなんと失礼な言い草だろうか。
数年後に、大丈夫どころか、そのすごさにひっくり返ることになるのだ。

◆夏のほか forget the summer heat
◆生命 life
◆磯 rocky coast
◆地球 planet earth
◆海 sea
・満ちる
・つながり
◆破壊と同化 destruction and assimiation
◆希望 hope
・露
・大地
・空
デザート
◆新緑 fresh leave
◆夕立ち evening shower
◆愛 love

HAJIMEでは規定により、料理写真は撮れない。
なので料理の印象は、記憶に頼るしかない。
それでも、食べて数か月たっても、それぞれの料理の印象は鮮明だった。
印象の鮮明さは、たとえば時計や楽器の小さなパーツをひとつひとつ調整していくような精密さで料理を作り上げる、シェフ米田肇さんの熱量によるものなのだろうと思う。
(本記事内の料理写真は、お店からの提供によるものです)

HAJIME_flow

◆満ちる
火入れぎりぎりのノドグロ。魚の出汁のスープに緑のオイル。
そのスープの下にわずかに添えられるのは熟成醤油。
この味があとから香ることで、料理に時間という立体感が生まれる。
時間を行きつ戻りつして食べ進む、複雑な味わいだ。

幼いころの思い出を映して

米田さんの料理の最も大きな特徴は、その複雑さだ。

手が込んでいるというようなひと言で片付くものではなかった。
複雑さは、米田さんの料理の必然だった。

そもそも、米田さんの料理がこれほど複雑であるのは、彼の料理の原点ともいえる、彼の幼いころの思い出からきているという。

米田さんは言う。

「自分自身の根源をさがさなければ、結局、いつまでたっても(料理が誰かの)コピーであるということに気づいたのです。
それで、まだ何も学んでいない自分を探すと、幼稚園にいく前の、幼年期。山や川や田んぼを走り回っていた自分を思い出したのです。
その時に、風が吹いて、虫がいて、空があって、星があって、雨が降って、そこに自分がいて、それが全てなんだ。と感じた時に『あぁー、うつくしい』と思った記憶を思い出したのです。
このバランスをお皿に載せたいと思ったのが今の原型になったのです。だから、その複雑さが自然だと思ったのです」

複雑さこそ自然。
このことばが、米田さんの料理の本質の一端を、よくあらわしている。

日本人である自分がフランス料理を作るとはどういうことなのかをつきつめた結果、米田さんは幼いころの自分の原風景に思い到って、逆にフランス料理をやめてしまった。
米田さんがこの原風景を自身の料理に載せていこうと思ったきっかけは、08年冬に、繁盛していたHAJIMEをいったん閉めてフランスに再修業に出たときのこと。
私が最初に訪問したあの日の、3か月後のことだ。

幼年期に「うつくしい」と感嘆した、自然をかたちづくるさまざまなパーツの美しいバランスを、米田さんは自分の料理の原動力として、そのまま料理に「複雑さ」として盛り込んだ。

ふつうそんな手の込んだことやるか?
クレイジー過ぎる!

複雑さを、米田さんは、手を変え品を変え料理に映す。
例えば「地球(planet earth)」では圧倒的な素材の多さ。
「満ちる」ならば味の時間差で感じられる複雑さで。

人は、体験や記憶をなぜ単純化させてしまうのだろう。
もちろん、細かいことを忘れてしまうからということもあるけれど、それはたぶん、抽象化して記憶に残すためなのだろうと思う。
人間は、何かを理解するために、あるいは記憶するために、その事象を抽象化して、単純化する。
抽象化は人間が記憶するための大切なプロセスだ。抽象化して、シンプルにしたほうが、体験として頭に残りやすいからだ。
また、そうしたほうが何かと楽だからというのもある。

ところが米田さんは、それらをシンプルにしない。省略しない。
幼少時の記憶をそのまま、料理のあるべきバランスとして複雑なまま表現してしまう。
周囲のもののひとつひとつを尊重する、意思のたまものなのだろう。

突き詰め方 作りこんでナチュラルに見せる

複雑さと同時に米田さんの料理から感じられるのは、手順の突き詰め方だ。
ミリ単位で並べられる食材、80種類の野菜が使われる「地球」をはじめコース全体で200種類を超える食材の管理、料理に込めた思いまで、とことん突き詰めてすべてが計算されているコースだなと感じる。
アラミニッツ、出たとこ勝負、ライブ感、「えいっと勢いで出す」のようなものとは対極にある。

HAJIME_destruction_and_assimilation

◆破壊と同化
寿司のような形状だ。ひと口で食べる小さな塊。
なめらかなフォアグラを、薄い表面の飴細工が覆う。
嚙み砕くと、しゃりっと軽い「壊れた」食感が口に響く。
その表面の飴細工で破壊を、咀嚼することで身体への同化をあらわしている。
食べることは、破壊と同化の繰り返しなのだということを思い起こさせる。
最後に、黒胡椒の柔らかい後味が残る。
食べることの根源を問うひと皿。

これも簡単に作れるように見えて、この持つだけで割れてしまいそうな薄い飴細工をフォアグラと合わせるのは、簡単ではないだろう。

こんなに複雑なものを作るのに、すべてがきっちり計算されていなければ、とても時間内に料理を出し切ることはできないだろうと思った。
また、ひとりやふたりの阿吽の呼吸などでは、明らかに作れない料理だ。
となると、その膨大な食材の調理法や盛り付けや管理方法はどうやって共有されているのだろうか、という疑問がわいた。

それについても米田さんの答えは明快だった。

「できるだけ数値化、明文化します。
ものを理解するためには、

目に見えるもの/目に見えないもの
言葉にできるもの/言葉にできないもの

にきちんと分ける必要があると思っています」

目に見えるもの・言葉にできるものはなるべく数値化・文章化する。
目に見えないもの・言葉にできないもの(たとえば味見など主観的要素が入るもの)は、できるだけ仕事で一緒の時間を共にすることですりあわせていくのだそうだ。

この考え方は、料理よりも、どちらかというと演劇やオペラ、オーケストラを上演する手順に似ている。
ひとつのことを成し遂げるのにチームを組むジャンルの芸術は、台本のような文章化と共有が不可欠だ。

米田さんの料理は、料理というより、それ以外のもの…芸術に似ている、と思った。

ここで、「地球(planet earth)」をともに作り上げている重要な要素でもある、器についても触れておきたい。

直径60cm、ふたり分をひと皿に盛るダイナミックでプリミティブな感覚を起こさせる皿は、有田のカマチ陶舗さんのものだ。

この器が使われ始めたのは、2011年ごろ。
最初は磁器でのオーダーであったものが、土で作られた試作品を見て、米田さんが「これで行きたい」と変更したものだという。
60cmのこの皿、焼く前は80cm近くあるという。それをアナログにろくろ引きして作る。
しかも、割れずに焼き上げられる率が他より極端に低いのだそうだ。
この器に盛られる前は、ガラスの器だったようだ。

素焼きそのままのような土の色と、空か海を思わせる、釉薬のかかった中心の濃い青。
「地球」の世界観を、より強く印象付ける、プリミティブで力強い額縁だ。

一回限りの芸術

米田さんの料理はどちらかというと芸術に似ている…と思いついてから、少し考えた。
芸術ならば、……後世に残せるだろうか?

当たり前だが、答えは否だ。

芸術は、残せるものと、残せないものがある。
書籍や絵画や書は前者だ。紀元前に残された絵画からでも、私たちはその時代の人と「対話」することができる。

後者の代表的なものは、つい最近までは演劇やオペラ、オーケストラなどだった。
「だった」というのは、残されていくようになったのは、録音技術が生まれたほんの数十年前からだからだ。
それまでは、演じられたらそれで消えてしまうものだった。

たいていの芸術が残せるようになった現代において、それでも残せないもののひとつが料理なのではないかと思う。
30年前のボキューズの料理、20年前のガニエールの料理、どれもいま食べたいと思っても不可能だ。

そう考えると、目の前に置かれた料理のひと皿ひと皿が、時間と場所が合って初めて出会える、奇跡のようなものではないかと思えてくる。
料理は、そのときに味わっておかなければならない芸術だ、ということもできる。

米田さんと同時代に生きていることは、私にとって僥倖だ。なぜなら、これから生きて、彼の料理の進化する過程を見ることができるからだ。

皿の上の芸術。
米田さんの料理は、日々私たちの前に生み出される、同時代に生きていなければ味わうことのできない、一回限りの芸術なのだ。

HAJIME
http://www.hajime-artistes.com/
大阪市西区江戸堀1丁目9-11アイプラス江戸堀1F
06-6447-6688
17:30~20:30
不定休


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